<< 赤い誘蛾灯 | main | 交流戦も残り5試合 >>

「The Hand That Holds The Truth」と狼のこと

 五反田遊古会が終わって帰宅、カープの九里は8回無失点の好投。今年、亜大からカープに入団した二人の投手、九里と薮田が活躍しているのが嬉しい。二人とも真面目で懸命なところが似ていて、かつ、いかにも亜大っぽい選手なので尚応援したくなる。この二人、高校も同じ、岡山理大府だ。岡山理大府→亜大ルートは強力で、この数年間で同ルートのNPB選手はソフトバンクの高田も含めて3人。この10年間で岡山理大府が甲子園に出場したのは2007年の1回のみなのに。そして来年間違いなくドラフト候補になるであろう亜大3年の頓宮裕真もまた岡山理大府出身のキャッチャーである。この春は満票で東都ベストナイン。来年のドラフト上位候補は間違いないだろう。全国屈指の激戦区岡山県ではなかなか勝ち抜けない岡山理大府だが、プロ野球選手を続々誕生させている…、ぼくの知っている加計学園の情報はこれが全て。安倍晋三のお友だちの学校であることを知ったのは今年になってからだ。森友で1発レッドカードと思いきやファウルすら取られず、プレイ続行。で、燻ってた加計学園問題が再びスポットライトを浴びる。今更証拠なんて出てくるはずもないと思った。内部告発、誰かの裏切り以外突破口はないと思っていたら、出た、裏切り者が。前事務次官。ところが、安倍政権はついこの間まで事務次官だった人間の証言すらなかったことにしようとしている。出会い系バーに通う悪い官僚の云うことは信用できないとまるで相手にしない。そこで「いじめ」があったことは誰もが知ってるけど見て見ぬふりをする、構造的にはそれと全く変わらない。お友達の為に様々な障壁を取り除きルールを改正、お膳立て、融通してあげたことが、依怙贔屓がなぜいけないのか、安倍の顔はそう言いたげだ。ここは俺の国だ、俺がルールブックなんだ、と。ロッキードの時代だったら、国民は憤怒に突き動かされただろう。今は、加計学園が獣医学部を作ろうがどうしようか誰も気にしない。安倍がやっていることは本質的に朴槿恵元大統領が弾劾された理由とそんなには変わらないが、この国は韓国よりもはるかに民度が低いため、安倍のモラルのなさを気にしない。菅官房長官が「いじめっ子」仲間の嘘をフォローしているのに、それが明らかな嘘の上塗りだとみんなわかっているのに呆けて見ているだけ。いつからこの国はこんなにもモラルを失ってしまったのか。ヘイトスピーチが町に垂れ流され始めた頃から、何かが取っ払われた。国会議員もめちゃくちゃなことを平気で口にするようになった。一昔前なら「クビ」になったであろう失言もあまりに頻繁な為か、ちょっとした失言では「命取り」にならない。例えば森友でも加計でも、書類がない記録がない記憶がないと、精緻な嘘をつく努力すらせず、幼児の言い訳のような言い訳が国会を罷り通り、世間を罷り通り、我々もそれを結果的に許してしまっている。安倍の強さの秘密が最近やっとわかってきた。それは圧倒的なモラルのなさだ。安倍のなりふり構わない、平気でその場限りの嘘をつける「モラルのなさ」と云う武器の前で、小さなモラルにしがみついている一群はいかにも無力である。  

 

 

 その日、ネットニュースに二つの訃報が伝えられた。ちょうど同じ頃だ。自民党に復党したばかりの与謝野馨と、東アジア反日武装戦線の大道寺将司である。浴田由紀子さんが釈放したばかりである。体調不良は何年も前から伝えられていた。それでもここ数年は辺見庸さんの跋文とセットで何冊もの句集を出しており、その存在感は際立っていたし、相変わらず連赤に比べて「東アジア〜」は人気があったし、その訃報には少なからずのショックを受けた。  

 

 

 与謝野馨と大道寺将司に何かの接点がないかちょっと調べてみたがわからなかった。晩年に声を失った保守系の政治家と、日本帝国主義と戦い続けた死刑囚と。  

 

 

 大道寺あや子は何処かで生きているのだろう。生きていて欲しいと思う。異国の空の下で、将司の死を彼女は聞いた。そう思いたい。1975年の5月19日に逮捕されてから42年、1977年に超法規的措置によってあや子が出国してから40年、二人は会ってない(はずだ)。

 

 

 テロ等準備罪が参院で成立されるのを目前に控え、大坂容疑者と思しき中核派の一人が拘留されたままである。子どもの頃から目に親しんだあの手配書の大坂正明なのだろうか、本当に。渋谷暴動から46年。46年間も別人で生きてきたはずである。テロ等準備罪にリアリティを吹き込むためにも奴らは必死になって「大坂と思しき男」の本人化を図るだろう。黙秘の男性は本当に大坂容疑者なのか。仮に大坂容疑者だとして、指名手配されてからの46年をどう生きてきたのだろう。警察に手配されながら、最も激しい内ゲバの時代を生き抜いた。名乗った名前もきっと一つや二つではない。仮に黙秘の男が大坂容疑者だったとしても、今さら逮捕の必要性はない、それよりも空白の日々について語って欲しいと思う。少なくとも、与党が無理矢理成立を目論むテロ等準備罪のパーツになることを望まない。  

 

 

 連日北朝鮮がミサイルを発射している。その意図を誰もが図りかねている。安倍がピンチになると北はミサイルを発射する。安倍と金正恩は通じているのではないか、と妄想してみる。北のミサイルも、世界のどこかで毎日のように破裂している爆弾の一つ一つが政権にいいように利用されて、ますます自分はこの国を、「ここ」を遠く感じている。正確に云えば、憎悪を募らせるばかりであり、その憎悪を持て余している。  

 

 

 大道寺将司の死と大阪府警に拘留されたままの誰かと、総理の意向文書の波紋などについて思いを巡らせていた頃、石神井書林さんより一冊の本が届いた。『ぽかん』と云う小さな雑誌で、石神井さんの文章が載っていた。「千代田区猿楽町1-2-4(其の四)」と云うタイトルの文章のなかで石神井さんは書いていた、1974年のあの日のことを。永福町のカレー屋で、三菱重工ビル爆破を知った日のことを。爆破予告の電話に三菱重工がまともに対応しなかったせいもあり、8人もの死者と多数の怪我人が出た。「たまたまその日、三菱重工のビルの前を歩いていただけで強いられた死は、それを実行した人たちが掲げる正義や倫理とどんな関係があるのか。関係を強いた果てと、関係を取り払った果てと、この二つの出来事は両極のようにみえた」。「関係を強いた果て」とは連赤の同志殺人を指す。狼たちに殺人の意図はなかったにしろ、帝国主義的企業犯罪者への鉄槌として仕掛けられた爆弾はたまたまオフィス街を歩いていた「無関係」の人々を殺戮した。連赤指導部は、ものすごく単純化して云えば、革命戦士として相応しくない人間を淘汰した。しかし、そこにいる誰も「革命戦士」がどんな人間か知らなかったので小さな瑕疵をターゲットにして非難をぶつけ、結果的に殺した。共産主義革命のために同志殺人に至った彼らの「果て」と、戦後30年変わらぬ日帝の植民地主義に憤っていた彼らの「果て」と、ひとつの雑誌とそれを作り続けてきた人間の「果て」と、その人間と自分(石神井さん)の関係性の「果て」が石神井さんのなかで激しく交錯している様がみえてぼくはうたれた。自身の倫理を貫き、アイヌ差別、朝鮮人強制連行、東アジアの環境破壊といった植民地主義を清算しない連中への闘争の道筋で「無関係」の市民を巻き添えにし、結果その8人の死にずっと向き合って獄中で生きてきた大道寺将司のことを思うとき、塗り固められた嘘に胡座をかく政府の要人の「倫理性」について考えるとき、「果て」の有様を裁く資格を有するものなどいるのだろうかと、何度でも絶望するのである。  

 

 

 ここのところMONOの『Rays of Darkness』というアルバムに収められた「The Hand That Holds The Truth」を延々繰り返し聴いている。この曲をいま聞くことができてよかった、つくづくそう思った。高校時代の友人の健ちゃんならきっとこう云うだろう、「相変わらず那須くんはこう云う曲が好きなんだね」と。MONOは徹底的に生と死について歌っているインストバンドだ。どんな人たちがやってるのか全く知らない。知らないけれど、このひとたちは「言葉をつかわずに」ひたすら生と死について「歌っている」ようにぼくには思える。ここ数週間、この国や世界で起きているいくつもの出来事について考えるとき、ぼくの頭のなかでは常にMONOが鳴り響いていた。これを書いている今も。石神井さんの文章を読んでいたら、やはりMONOが聞こえてきた。  

 

 

 水族館劇場の機関紙『FISHBONE』の66号で桃山さんが書いていた一行の文章が忘れられず、今、こんな時代にあって、これ以上悲しくまた心踊らせる「檄文」はないように思った。「政治的な絶望が深ければ深いほどみはてぬ夢にまどろみつづける芝居者でありたいと考えている」。芝居者を古本屋に置き換えて誦んじてみる。

at 09:31, 古書赤いドリル, -

comments(0), trackbacks(0), - -

comment









trackback
url:http://blog.aka-drill.com/trackback/756